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武者小路千家とは

三千家に分かれた初代一翁宗守(似休斎)から当代不徹斎宗守に至るまで11代、 利休より数えれば14代に亘り、利休流の茶を継承しながら現在に至っている 一翁宗守は元伯宗旦(利休の孫)の次男として生まれる 兄に閑翁宗拙、弟に江岑宗左(表千家)、仙叟宗室(裏千家)の兄弟を持つが、 兄閑翁宗拙ともに宗旦の先妻の子であった 塗師吉文字屋へ養子に行き吉岡甚右衛門を名のっていたが、この業を中村家(千家十職 初代中村宗哲)に渡し、千家兄弟のすすめもあって「千」姓にかえり京都市上京区武者 小路通小川東入に居を構え官休庵の祖となった 慶安三年(1650)甚右衛門五十八歳の時大徳寺玉舟和尚から一翁宗守の号を授かった とされ、又似休斎の号の示すように、利休を慕い、利休を追求した 一翁宗守がのちに建立して武者小路千家の中心に据えた官休庵の号について、 古来いろいろの説があるが、一翁宗守が高松の松平侯の茶頭としての公の仕事を隠退し、 官をやめた侘人の庵室といった意味と考えられる ー官休庵入門 1ー



武者小路千家 歴代お家元

 

武者小路千家歴代家元について 官休庵の主が代々襲名するしきたりの「宗守」(法諱)号は、後継である間に名乗る「宗屋」号とともに、始祖一翁が大徳寺第百八十六世玉舟和尚から頂いたもの
 

一翁宗守 似休斎 (1593~1675)

一翁は法号(居士号)似休斎は称徳号(斎号)禅家では得度と同時に法諱を授け、禅の修行がある段階まで進んだところで法号を授けるのがならいであるが、法諱の下の一字をその法号の上に冠した場合に、その二字或いは三字で意味深長な語句になるように、法号を選定するのが原則 
宗旦の先妻の息子として生まれ塗師吉文字屋(のちに千家十職中村宗哲)へ養子に出されたが職を中村家に譲り「千」姓に戻る
官休庵の号について諸説有るが、高松の松平侯の茶頭として出仕したが隠退して官をやめた侘人の庵室といった意味と考えられる   
其の一を守ること此の如し、乃ち能く道を成ず「後漢書」「守一翁」とは、「一」とは一切万物がみなそこから生まれ、またそこに帰するところの唯一絶対なもの、則ち唯一絶対なる大道を体得し、これを護持して堂々と生きる翁
似休斎とは曽祖父利休を崇拝し、その境涯に到達したいという願いを託したもので「利休に似る」の意


 

文叔宗守 (1658~1708)

似休斎六十六歳の時の子供として生まれる十八歳で父が他界し父の遺業の継承護持につとめる
道具の審美鑑定にすぐれた見識を持ち茶の点前も「一時の上手にてありけり」と評判された『茶話抄』
中国で古来から二代目の帝王を「継体守文の君」と呼称したことに拠ったものだろう「守文」とは先帝の創業を忠実に守り、継承して、平和に国を治めるという意味 斎号は分からない


 

真伯宗守 静々斎 (1693~1745)

才気豊かな芸術肌の人物江戸時代中期にかかる頃活躍した人物で茶の湯が侘び茶から開かれる必要に迫られた変革の時代であった
慎みて其の真を守り、還って物を以て人に与うれば、則ち累う所無し「荘子、漁夫」 道を味わい真を守る「後漢書、由屠嘉伝」


 

堅叟宗守 直斎 (1725~1782)

五摂家の九条家の家臣であった嵯峨家より出て真伯の養子となった享保時代を迎え時代の転換期で富を蓄積した町人の社会的地位が向上し、多数が茶の湯に参加し始めた為、官休庵における新しい茶の湯制度、家元制度を確立したことで中興の祖と呼ばれる
表千家如心斎らと共に「千家七事式」を制定した  
茶室を十五畳まで広げたりと茶室の創意や、好み物も数多く才気を発揮した  
斎号「堅直」(史記、石奢傳)=かたく正しい事「堅守」(戦国、斉策)=かたく守る、などが連想される


 

休翁・円明・渓澗宗守 一啜斎 (1763~1838)

京都の人で川越兵庫の子、直斎の門人であったがのち養子として五代目を継いだ松平不昧侯に愛されて多彩な足跡を残した
休翁という居士号の由来は定かではないが一啜斎という斎号は、「万壑の松風 一啜に供す」  「一碗の茶とともに満山の松風さらにいえば天地乾坤を呑みほすというほどの意味」


 

仁翁宗守 好々斎 (1795~1835)

裏千家九世石翁玄室(不見斉)の第三子で同十世認徳斉宗室(柏叟)の弟にあたる
養子に迎えられて家を嗣いぎ、高松侯の茶頭を引き継いだが養父一啜斎より三年早くに四十一歳で帰寂茶法は父玄室に学ぶ


 

全道宗守 以心斎 (1830~1891)

表千家十世吸江斎宗左の弟で久田家皓々斎宗也の子である
茶法は了々斎と兄吸江斎に学ぶ、好々斎が比較的早世であったので一啜斎の養子となり官休庵を嗣いだ 
早くに隠居し宗安と号した幼児痘蒼を煩い眼を傷め、後失明をしたため六代好々斎の未亡人宗栄が門人木津宗詮の協力で一時家職を代行した
斎号は「肉眼を以て看ず、心眼を以て看る」の所ではないか


 

一叟宗守 一指斎 (1848~1898)

表千家十世吸江斎宗左第二子(以心斎にとっては甥にあたる)斎号は「倶胝一指頭の禅」にあるものと思われる
茶法は父に学び、以心斎の養子となる 時代は幕末動乱期で文明開化の風潮の中、茶道は旧物のの最たる物の一つと目され振るわず困難な時期であったが、堪え忍び明治十年代後半頃からの国粋保存運動の波にのり茶道復興の気運を高めた


 

聴松宗守 愈好斎 (1889~1953)

久田宗悦(吸江斎の末弟)の次男 9歳の時養父に先立たれ、表千家碌々斎・惺斎の元で成人する 第三高等学校をへて東京帝国大学国史学科を卒業後中絶していた武者小路千家を再興した
形式の伝授に傾いていた従来の指導法にあきたらず、形式の根底にある精神を把得させることに重点を置いた又、茶道史の研究にも著書が多く、活躍した斎号は「寒山詩」に基づく「微風 幽松を吹く、近く聴けは声愈いよ好し」


 

徳翁宗守 有隣斎 (1913~1999)

第三高等学校をへて京都帝国大学文学部、同大学院に進み京都市史編纂委員なども務め昭和16年に女婿(料理研究家 千澄子)として官休庵に入った
古希を境に隠居号徳翁を使い始める


 

不徹斎宗守(1945~

有隣斎徳翁宗守と料理研究家 千澄子との間に生まれた長男慶應義塾大学法学部政治学科、同大学院文学研究科で美学美術史を専攻
昭和49年後嗣号「宗屋」を襲名、平成元年10月「不徹斎」の斎号を授与された 同年12月先代有隣斎宗守が病の為「宗守」襲名、現在に至る


参考
「利休とその道統 官休庵歴代の遺墨 芳賀幸四郎」 
「起風」三号・四号 
「武者小路千家茶の湯シリーズ1・3

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